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2013年8月

2013年8月17日 (土)

瀬戸内の島々 ~小豆島編(2)

 春休みに訪れた小豆島。
 2日目はツレアイが前から行きたがっていた二十四の瞳 映画村を目指します。
 壺井栄さんの「二十 四の瞳」は昭和27年(1952年)に発表された小説ですが、私は小学校時代の教科書で一節を読み好きになれず、読まずじまい。
 昭和29年に高峰秀子主演、昭和62年(1987年)に田中裕子主演で映画化されており、後者を観たツレアイの頭に「小豆島=二十四の瞳」とインプットされたようです。(ツレアイは尾道、五島列島など気に入った映画のロケ地を巡るのが好きなのです。)

 実は小説には「瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。」とだけで、小豆島とは書いてありません。壺井栄さんが小豆島の出身であったこと、「百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形に見せる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくて歩いたりせねばならない。」岬の村に小学1年生から4年生が通う分教場があったことから、その少し先にロケ用の分教場が建てられ、今でも映画村として公開されています。

 宿からオリーブ園、醤油蔵の町を抜けて海沿いの道を走ると、岬の突端に映画村がありました。分教場の前は海。うちの子供はロケに使われた古いボンネットバスの運転席に乗り込んで、離れようとしませんでした。海の魚が泳いでいる川が流れていたり、壺井栄文学館、古い映画が見られるキネマ庵、そのほかレトロな土産物屋や食事処があり、午前中いっぱい過ごしてしまいました。

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 「二十四の瞳」は小学校の教科書にも載るくらいですから子供向けかと思っていたら、とんでもない。
 昭和3年(1928年)に岬の分教場へ赴任してきた「女学校の師範科を出たぱりぱり」の大石先生と一年生十二人のその後を、断続的に終戦翌年(昭和21年)まで描いています。女子七人のうち三人は、母親がお産直後に亡くなり、赤ん坊の世話のため学校に来られなくなった上、後添えが来たら親戚の家へやられてしまったり、嫁入り前に女中奉公へ出て結核にかかり物置小屋でひっそりと亡くなったり、家が傾き売られたり、と現代では考えられない運命が待ち受けています。五人の男子も三人が戦死、一人が戦地で視力を失って帰郷しと戦争に巻き込まれます。大石先生も夫、母親、娘を亡くし、息子二人を抱えて困窮したところを、教え子の力添えもあって、戦後再び分教場の教壇に立ち、かつての教え子と再会します。

 壺井栄さんは、昭和二十七年にこの作品が出た時の「あとがき」に、
「くりかえし私は、戦争は人類に不幸をしかもたらさないということを、強調せずにはいられなかったのです」
と書かれたそうです。
 敗戦により言論、集会結社、出版、思想の自由が認められたものの、昭和二十五年に朝鮮戦争が始まり、警察予備隊の設置、レッド・パージ、二十六年には破壊活動防止法の交付、公安調査庁の設置と情勢が急速に変化する中での執筆だったとのことです。

 そんな作者の思いが随所に出てきます。
 
 
 
 
 昭和八年に近くの町の小学校教師が教え子に反戦思想を吹き込んだとして警察に逮捕され、その証拠となる綴り方『草の実』は大石先生が感心するできばえでしたが、ほかの先生によって火鉢で燃やされます。
 昭和十六年に子供のランドセルを買いに来た大石先生が、かつての教え子達が徴兵検査を受けに行くに偶然出会い涙するのに、居合わせた年よりが
 「えらいこっちゃ。あやってにこにこしよる若いもんを、わざわざ鉄砲の玉の的にするんじゃもんなあ。」
 「ほんとに。」
 「こんなこと。大きな声じゃいうこともできん。いうたらこれじゃ。」
 ランドセルをもったまま両手でうしろにまわし、さらに小声で、
 「ほれ、治安維持法じゃ。ぶちこまれる。」

と声をかけるシーンがあり、
 家に帰り、ランドセルを背負ってうれしそうに走り回るわが子の姿をみて、
 その可憐なうしろ姿の行く手にまちうけているものが、やはり戦争でしかないとすれば、人はなんのために子をうみ、愛し、育てるのだろう。砲弾にうたれ、裂けてくだけて散る人の命というものを、惜しみ悲しみ止どめることが、どうして、してはならないことなのだろう。治安を維持するとは、人の命を惜しみまもることではなく、人間の精神の自由をさえ、しばるというのか……。
      中略
 今年小学校にあがるばかりの子の母でさえそれなのにと思うと、何十万何百万の日本の母たちのこころというものが、どこかのはきだめに、ちりあくたのように捨てられ、マッチ一本で灰にされているような思いがした。

 と続きます。
 

 
 

 
 終戦から六十八年、「二十四の瞳」が書かれてから六十一年がたちました。
 もし、現在のような保育所や家事を楽にしてくれる家電の数々があったら、松江は赤ん坊を遺して母親が亡くなっても、学校に通い続けられたのではないか、そもそも母親は妊娠中毒症から早産したのちに脳出血を起こしたと思われるので、現在の医療水準であれば助かったのではあるまいか。コトエも結核で死ぬことはなかったであろう。
 憲法改正が話題になる昨今、自分の子供を戦場に送ることに母親たちはノー言えるだろうか。いや、言わなければならない。
 かつて親や祖父母が経験した戦争のこと、子供の世代にも伝えなくてはと思いました。
 そういえば、松江市の閲覧制限で話題になっている「はだしのゲン」、未読でした…

 

 

 

 
 
 

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